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在韓被爆に関するQ&A

在韓被爆問題に関するQ&Aを作りました。

私達の活動にご参加いただいた方々にお配りしている資料ですが、多くの方に在韓被爆の事を知っていただくためにご紹介させていただきます。

参考にさせていただいた著書「ヒロシマを持ち帰った人々」の著者である市場淳子様にもお忙しい中ご協力いただき、内容をご確認いただきました。市場淳子様、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

在韓被爆に関するQ&A.pdf



在韓被爆に関するQ&A

(参考:ヒロシマを持ち帰った人々 市場淳子著 凱風社)

かいつまんだ情報ですので、詳しくは各自でお調べください。


Q. 陜川(ハプチョン)はどこにありますか?

A. テグまで車で1時間、釜山まで車で2時間20分の距離にあります。千メートル級の山々がそびえ立ち、「韓国のチベット」ともいわれるほどに高くて険しい山地が重畳しています。そのため、郡内には平野といえるものはなく、唯一、郡東部に形成されたチョゲ盆地にまとまった平地が見られるだけです。
ハプチョンの位置



Q. 何故陜川(ハプチョン)に在韓被爆者の方々多いのですか?

A. 日本による朝鮮植民支配が始まって程ない早い時期に広島に渡られた数人の方々が郷土の陜川(ハプチョン)の方々を受け入れたといわれています。在韓被爆者の方々の話によると、植民地時代に日本へ行くためには、先に日本に行った親戚や知人から受け入れ証明を送ってもらって、それを地元の警察に持って行き、そこで渡航許可証のようなものを発行してもらわなければならなかったということです。事実ははっきりしておりませんが以下のような証言があります。

「世間で聞かれる話では、早くに広島に渡って事業に成功したカンというハプチョン出身者が自分の故郷の人達を次々に呼びいれたことがハプチョンの人達が大挙広島に渡った動機だといいますが・・・」

「祖母が幼い頃にしてくれた話ですが、3・1運動で逮捕された人の中に、ハプチョンから広島の刑務所に送られた人達がいて、その人達が刑務所からでたあとのことなのでしょうか、ハプチョンの人に「広島は住みよいところだ」という話を伝えて、それでハプチョンから広島に渡った人が何人かいて、次第に広島に行く人が増えていったという話でした。」


Q.何故ハプチョン出身の方々は広島に渡ってこなければならなかったのですか?

A.ハプチョンから渡日された方々は生活のために渡られた方がほとんどです。元々農地として恵まれた地域ではなかった場所だったのですが、日帝時代に植民地化政策の下、日本向けの米や綿花の栽培を強いられ、また天災なども加わり、貧しさのため生活ができなくなり仕事を求めて渡日されたケースが多かったようです。

■渡日理由
渡日理由
※ソウル、畿湖、ハプチョン、釜山に関しては、1979年に「韓国協会女性連合会」が慶北に関しては、1979年に協会と市民の会が行った調査結果をもとに、湖南に関しては、慶南に関しては1977年の協会の登録兼調査表をもとに集計。


Q.ハプチョンから渡ってこられた方々は広島でどんな生活をされていたのですか?

A.仕事は、肉体労働に従事されている方が多かったようです。また賃金差別があり、通常の日本人の半分くらいの収入で、また言葉ができない方は更に賃金が低く重労働の土木労働や廃品回収などに就くしかなかったようです。住まいは、立地条件の悪い所や被差別部落地域に隣接して集まって住まわれていたようです。在韓被爆者の方々に「当時の生活で困ったことは何か?」という質問に対して、「生活苦」をあげる方が最も多く、つづいて「差別」「食糧不足」「言葉が通じない」をあげた方が多かったとのことです


Q.朝鮮半島出身の方々はどれ位原爆投下時に亡くなられているのですか?

A.被爆者の10人に一人は朝鮮人といわれています。資料では広島と長崎の被爆者総数が約691,500人のうち約70,000人が朝鮮人となっております。また広島で爆死された方は159,289人のうち約30,000人が朝鮮人と言われています。つまり、広島で爆死された方の10人に2人は朝鮮人というわけです。

■被爆者数と朝鮮人の被害状況
被爆者数と朝鮮人の被害情報

Q.原爆投下直後の朝鮮半島出身の方々はどんな様子だったのですか?

A.被爆直後に被爆地から非難できた方は6%に過ぎず、89%の方が残留放射能のたちこめる被爆地に残られました。ハプチョンから広島に渡って来られた人の多くは、日本語ができない、あるいは日本人から差別されるなどの理由で、立地条件の悪いところに閉鎖的な朝鮮人集落を形成して暮らしていました。したがって、被爆後避難できる親戚や知人を広島市の郊外に持つ方はほとんどいなかったのです。


Q.帰国後在韓被爆者の方々はどんな生活をされていたのですか?

A.祖国にたどりついても、多くの者には故郷の村に帰るべき家も、耕すべき田畑ありませんでした。生きていくために、親戚の家に身を寄せ、あるいは掘っ立て小屋を建て、はなはだしくは橋の下や防空壕の中で雨露をしのぎ、働ける者はよその農家の仕事を手伝ったり、日雇いや行商で日銭を稼ぎました。それさえもできなければ、野草や木の皮や根を取って食べたり、物乞いによって飢えをしのぐほかありませんでした。そのようなどん底生活で、原爆に傷ついた体を癒すこともできず、元気だった者も原爆症に侵されていきました。医者にかかろうにも治療費が払えず、薬草や民間療法に頼るしかありませんでした。また、たとえ医者にかかれても、被爆者自身が原爆に遭ったことを知らず、原爆症とその治療について知る医者も韓国には皆無でありました。


Q.在韓被爆者の方々は現在何人くらいいらっしゃるのですか?

A.韓国原爆被害者協会に登録している生存被爆者、つまり在韓被爆者のうち被爆者であることを名乗り出ている人の数は、2010年9月末時点で総数2,639名です。また、被爆後祖国に帰国された方々の数については、23,000人が韓国に、2,000人が北朝鮮に帰国されたといわれています。


Q.ハプチョンには在韓被爆者の方々は何人くらいいらっしゃるのですか?

A. 2010年9月末時点では、ハプチョン郡に住む被爆者(韓国原爆被害者協会ハプチョン支部会員)は633名です。ただし、協会では、全登録者の半分、いや3分の2はハプチョン出身者ではないかともいわれています。

■韓国原爆被害者協会登録者数(2010年9月末現在)
ソウル支部 : 568名/畿湖支部 : 36名/慶北支部 : 468名/陜川支部 : 633名/釜山支部 : 657名/
慶南支部 : 244名/湖南支部 : 33名
合計 : 2,639名


Q.ハプチョン原爆被害者福祉会館にはどれ位の方が入居されていますか?

A.約110人の在韓被爆者の方々がいらっしゃいます。そのほとんどが身寄りのない人々です。平均年齢は77歳を超えています。130人の方が入所を待っている状態です。(2010年7月)


Q.戦後韓国と日本政府で戦後補償について締結された日韓基本条約には在韓被爆者の問題は取り上げられなかったのですか?

A.1965年の日韓基本条約締結の直前に韓国の被爆者の現状が初めて日本に知らされる機会がありました。在韓被爆者達は、日本からの補償を受けられると期待しましたが、日韓基本条約の内容には被爆者の補償に関する項目がなく、在韓被爆者の方々は大変落胆しました。そして、「座して死を待つことはできない!」と、韓国原爆被害者協会を立ち上げ、組織的に日本と韓国の政府に働きかけるようになりました。


Q.韓国政府の在韓被爆者に対する援護はないのですか?

A.1987年4月より、韓国内の被爆者治療制度がスタートしました。その内容は「大韓赤十字社病院を指定病院として、協会登録会員の治療を行う。診療費には医療保険点数を適用し、うち一割を本人負担、九割を国庫負担とし、一人当たりの国庫負担上限は60万ウォン(5万円程度)で超過分は本人負担とする」というものでした。日本の原爆医療法による無料治療制度に比べれば本人負担があり、国庫負担に制限があり、指定病院が非常に少ない、被爆者に対する理解や専門的知識のある医師がいないなど、数々の問題点、不十分点がありました。現在は、①ハプチョン原爆被害者福祉会館の運営費・②韓国原爆被害者協会の会員被爆者に対する医療費補助費月額10万ウォンの支給・③韓国原爆被害者協会の会員被爆者に対する医療費の一部支給を、行っています。


Q.戦後日本政府から在韓被爆者に対して補償はされなかったのですか?

A.1990年、日韓首脳会談で海部政権の元で人道的医療支援金40億円の支払いを行いました。ただし、日本の被爆者予算は1年間で1300億円と比べてあまりにも小額で在韓被爆者の方々はここでも非常に落胆されました。また使用用途についても「治療費、健康診断、センター建設費」という風に特定されたガイドライン付でした。結果、その支援金を下記のように使用されました。
無料治療(保険診療による医療費の自己負担分を支給)
年一度の健康診断
一人当たり月額10万ウォン(8000円程度)の診療補助費の支給。
葬祭料一人当たり150万ウォン
ハプチョン原爆被害者福祉会館建設
しかし、韓国は保険診療の適用範囲が狭く、また対応できる病院もその数が少なく、一旦本人負担せねばなりませんでした。


Q.被爆者手帳って何ですか?

A.原爆投下から12年経った1957年に「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」(原爆医療法)が制定され、広島・長崎の原爆被害者であることが認定されると、「被爆者健康手帳」が交付され、国費負担で健康診断と原爆症の治療が受けられるようになりました。その後1968年に「原子爆弾被爆者の特別措置に関する法律」(原爆特別措置法)が制定され健康管理手当てが支給されるようになりました。その後様々な法改正等を経て1995年にこれら原爆二法を一本化した形で「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)が施行されました。被爆者手帳を手に入れると、被爆者援護法に基づいて、被爆者の方々の医療費が全額無料になり、生活の支援として手当て等を受ける事ができます。ただし、現在、在外被爆者についてはその内容には日本の被爆者のものと比べて制限があります。


Q.在韓被爆者の方々は被爆者手帳を手に入れることができるのですか?

A.在韓被爆者の被爆者手帳の取得をめぐり裁判が在韓被爆者と日本の行政との間で行われました。1978年に孫振斗氏の裁判で手帳を取得できることになりましたが、日本に滞在している間のみ被爆者援護のための法律が適用され、韓国に帰国すると手帳は失効するといった限定的なものでした。その裁判から約20年後の1998年郭貴勲氏が韓国国内でも適用されるように裁判を行いました。結果2002年郭氏が第二審で全面勝訴し、また日本政府も人道的見地から上訴を行いませんでした。ただし、この時も在韓被爆者の方々は手帳交付のために渡日する事が条件でした。2008年12月から韓国の日本大使館・領事館で申請できるようになりました。


Q.被爆者手帳取得で受けるサポートは日本の被爆者と在韓被爆者で現在違いがありますか?

A.被爆者手帳を取得すると日本では、年二回の健康診断が無料で実施され、毎月、病気に関連する手当て(医療特別手当・特別手当・健康管理手当・保健手当・小頭症手当のどれか一種類)と介護手当が支給され、医療費が無料となり、死亡時には葬祭料が支給されます。在韓被爆者を含む在外被爆者の方々は、病気に関連する手当てや葬祭料は支給されるようになりましたが、無料健康診断は受けられず、医療費支給額の上限が年間16万円と制限されており、介護手当の支給もありません。


Q.現在、在韓被爆者の全ての方々が手帳を取得できるようになったのですか?

A. 渡日の必要もなくなり、手帳は取得しやすくなりましたが、手帳を取得するためには原爆被爆の事実を証明する必要があります。それには保証人や証拠物が必要で、戦後65年経つ今、証明できずに手帳を手に入れる事ができない在韓被爆者の方々も多くいらっしゃいます。


Q.その他在韓被爆者に関する問題はありますか?

A. 色々あります。一つに原爆症認定の問題があります。癌等大病を患った場合、制限された医療費では到底まかないきれない現実があります。そこで原爆症認定がおりると毎月の手当てが約14万円になり、医療費の負担が少し楽になります。2010年4月から日本大使館で原爆症認定の申請ができるようになりましたが、その場合癌と被爆の因果関係を示す医師の意見書が必要です。しかし、韓国ではそのような診断書を的確に書ける医師がいないために、日本の専門的な医師の診断を受けるために、病気の身を押して自費で渡日しなければならない場合があります。また申請を受理されてから手当てが支給されるのは約1年半後になります。